読 書 案 内


 香 本 明 世 著   娯楽としての読書
                 文芸社  1575円


                           


 知的エッセイを味わう楽しみ


    とても面白い本である。次々と千変万化にくりだす話題の面白さと,それに対して著者の披露する
   見解に,眼が開かれる思いで手放せなくなり一気に読んでしまった。このような体験は,私の場合
   「岡潔」氏の一連の随筆を読んだときがまず思い起こされる。その他はほとんど小説であり,心理
   描写の面白いドフトエフスキーや夏目漱石の作品などであった。岡潔氏はご存じない人も多いかも
   知れないが,本書の「『春宵十話』を読んだころ」に少し解説があるのでおわかりいただけると思う。
   こういうと本書が難しく,堅苦しそうに思われるかも知れないが,実際は著者の小学校時代からの
   体験をもとに,折に触れてさまざまな話題をわかりやすく述べているので気楽に楽しめる。では,ど
   こにそれほど惹かれて手放せなくなったのか。

    この本は著者が小平邦彦著「怠け数学者の記」を読んだ感想を中心において,その他いくつかの
   身近な話題をとりあげて,諸所で著者の見解を披露している。すると単なる随筆か書評のようであ
   るが,実は全く違うのである。この本の分類は既成のジャンルに入らない様に思う。随筆,評論,
   自伝,書評,解説,提言・・・どれもぴったりのものがない。しかしこれらのどの性質も持っている。
   独特の内容に加えて,形式上でも新しい種類の本かもしれない。この本の面白さは自身の体験を
   もとにしつつ,なるほどという珠玉の見解があちこちに述べられている所にある。現実的なことから
   理念的なことまでその範囲はきわめて広い。現実的な話題ではそれがすぐ実生活や仕事で有益な
   ことまである。例えばわれわれはしばしば他人を安易に批判することがある。そのようなことに対し
   て著者は高校時代の経験をもとに,次のように戒めている。

    「誰しも自分が価値を認めている事がらを話題にするときは適切に話せるものだが,自分が
    嫌いなこと,自分があまり価値を認めたくないと思っている事がらにふれるときは,つい単純
    否定に陥って失言をしやすい・・・つまり,物事を肯定と否定に二分類する癖をあらため,あら
    ゆるものについて,それが占めるべき位置を自分の価値体系の中に見つけておくのである。
    ・・・ 価値観の確立ができると,およそ存在するものは何らかの役割を担って存在しているの
   であるから,単純に否定できるものがほとんどなくなると同時に,それぞれの事柄が占めるべ
   き位置をその価値のありかたをふくめて認識するようになるので,全体を矛盾なく掌握できるの
   である。」

  と明確に捉えている。また

   「自分がよく知らない事柄については発言を控え,沈黙を守るのは,無知のしるしではなく
   て知恵の証である。」

  なるほどそうである。一方理念的な内容に関する見解も沢山ある。この本を書くもとになったと思わ
  れる箇所をあげる。これは恐らく著者が内々に感じていたことを小平氏が明確に述べたもので,著
  者は深く感動したのである(次の文自体は小平氏のものである)。


    「物質的自然界が数学の対象よりはっきりした実在だという一般的な考え方を,私は
    疑っている。・・・さらに最近話題になっているブラック・ホールは,もともとアインシュタ
    インの一般相対論の方程式の数学的な解にあらわれるだけで,まさか本当のこととは
    思われなかった。それがどうも実在するらしいというのだから,数学が単に物理的事象
    を記述する言葉だとはとうてい思われない。・・・私の感じでは,むしろ物理現象の背後
    に数学的現象が実在していて,あらゆる自然現象はこの数学的実在の上に乗って存
    在しているのではないか。」

  哲学書のように難しく思われる内容を,卑近な例を沢山あげつつ,気楽に楽しく読めてしかも実
  在論へまで読者を引き込んでいるというのがこの書の魅力である。著者の数学に関する見解は
  ほぼ大方の数学者の見解と同じと思うので,これは驚くべきことである。数学に関しては
  非専門家の著者が数学の本質を見抜く眼の非凡さを証明していると言えよう。例えば,
  「複素関数論との出会い」の章も見ていただきたい。さらに,これまで数学者が世間に
  知らせることを怠っていた,数学に対する世の誤解を著者はみごとに指摘してくれている。

     「一般に,数学を専門にしない人が数学を学ぶ意義は,論理的なものの考え方を身に
     つけることだといわれている。しかし本当にそうだろうか。・・・数学は論理の皮をかぶ
     っているので,かなりの知識人でも数学の才能を論理的思考力とまちがえている人が
     あるが,本当はこの感受性(数学的センス)に対応して成立している特殊な学問なの
     である。」

  実際私自身30年近く数学の研究をしているが,論理には一向に強くなっていない。まわり
  の数学者をみてもほぼそのようである。論理でいえば実験科学者のほうがはるかに強いように
  思う。上記のような誤解の他に,私の体験としては,素人の数学愛好家などがときどき,数学
  に対し誤った主張を述べたてて辟易することがある。ある愛好家が「非ユークリッド幾何の非
  存在証明」の講演を行ってビックリしたこともある。もっと初歩的なことだが,社会的に高名な
  方が「この世界(その方の職業)は数学の世界と違って1+1は2でなくて,3にも4にもなる」
  というようなことを述べたりする。たとえ比喩にせよこれはノーグッドである。(下記註)

  本書は話題があちこちに飛び全体としてバラバラに見えるが,「実在論」,あるいは「本質論」
  と言ってもいいかと思う,で統一されているように思う。そのような硬派の話が娯楽小説のように面
  白く一気に読めることが不思議である。理由は著者が「実在論」を深く捉えていて,平易な言葉で,
  自身の例をあげつつ判かりやすく述べていることにあると思う。

  近年若者の理数離れが深刻化して日本の将来を心配する声が聞かれるが,若者に数学や理科
  に関心を呼び起こしてもらえればありがたい。それと世間一般に数学に対する理解を深めていた
  だく契機になればいいと思う。私を含めて,お互いに,「本質をみる」眼を養うよう気をつけたい
  ものである。こんな重要なことが面白く読んだ本の副産物であるとは!! 

(註)
数学と違って 1+1 が2でなく,3にも4にもなったりするという言葉の裏には,数学のように硬直した世界でないという数学に対する誤解があるようである。実は数学ほど自由性のある学問はないのである(と思う)。数学では矛盾がなければ,その研究が価値があるかないかは別にして,どのような研究も許されるのである。また,1+1が2でないなら,至る所事故が起こってこの世は破滅している,否,本書の中にも述べられているように最も深いところに数学的事実は存在していると思われるので,そもそもこの世は(このような形では)存在していなかったはずである。更に言えば,1+1が2でないならならそのような職業では1のまま,あるいは0になった可能性もあるのでないか。3になったのは偶然で,つまるところ予測と推論の甘さがあったのでないか?