PAVIA たより


 1998年のある日突然イタリアからメールが飛び込んできた。私の提出していた問題を解決したというのだ。
発信人は名前だけは知っていた方だ, Pavia Univ の教授らしい。 ここから Pavia との関係が始まった。 パヴィア、パヴィア・・・パヴィア、なんとなく中世イタリアの都市を感じさせる名前。はて、こんな名前の都市どこにあったろう?  「パルムの僧院」のパルマ、ともかのガリレオの教えたパドヴァともちがう・・・・・地図帳で探すがなかなか見つからない。 Milano の南40kmくらいのところにあった。2000年10月初めてパヴィアを訪問する機会があった。事前に Pavia 関係のホームページで Pavia について調べた。そのとき現れた写真が Ponte Coperto (covered bridge) であった。そもそもパヴィアという名前からして、なんとなく中世的な感じを抱かせ、さらにこんな橋が現れたものだから突然タイムスリップ、ヨーロッパ中世の世界に入り込んだ気分であった。きっと・・・・・

              鉄道のパヴィア駅を降りると、コペルト橋があり、
               パヴィア市街はこの橋を渡った城壁の中にある、
               そこには中世の街と人々の暮らしが息ずいている・・・・・

そんな夢想をした。 現実は? コペルト橋も意外と想像とそれほど違ってなかったし、旧市街には中世風の街並が残っており、旅に出る前想像する景色と実際に見た景色のギャップは少ないほうであった。
  2003年7月から12月まで今度は少し長期にわたって Pavia に滞在した。 Departimento di Matematica のある郊外の近代的な建物の並ぶ場所から宿泊していた Collegio Nuovo まで回り道をし、ほとんど毎日勤務後旧市街まで散歩した。いつも突然中世の世界に入る感じがした。ただ、建物は外見は古くても店内は明るくハイセンスでしゃれていて美しい。



                         


                                      TICINO川にかかる Ponte coperto (covered bridge)
                                       この少し下流で有名なポー川に合流する。
                   夏には水泳をしたり岸辺で日光浴をする人で賑わう。
                                      水泳ができるほど水がきれいだ。          

   


  1351−1354にローマ時代にさかのぼる橋をモデルに Giovanni と Jacopo によって作られた。
その後第二次世界大戦のとき爆撃を受けて破壊され、1950年代に古いものをモデルに
作り直したものである。手前にはまだローマ時代から使われた石で出来た古い橋の土台が残っているのが見える。


                    

                                上流から          橋は旧市街と旧市街を結ぶ  橋の上から下流を眺める



                           


                                                     秋のティチ−ノ川とパヴィアの街



 パヴィア市は、ミラノの南40kmくらいのところいにある。何千年もの独特の伝統を持ち、歴史と芸術、そして文化と自然の豊かな街である。11世紀から13世紀のロマネスク時代の輝かしい繁栄は、数々の大聖堂や宮殿、そしてパヴィアを「百の塔のある街」として有名にした。 一方環境保護においてはイタリアの全都市の中で一番に選ばれるなど近代的な面も持つ街である。
 方程式に関心のある方なら Cardano (カルダーノ) という名前をご存じだろうか。3次方程式の解法に Cardano の方法というものがあるが,パヴィアはそのカルダーノ (1501-76) の生まれ育った町である。旧市街の中にはカルダーノ通りと名前のついた通りもあったし,いまでもカルダーノ姓も見かけた。



1.パヴィアの塔と教会

  塔と教会は切り離せない、街のあちこちに塔が見られる。どれも長い歴史を感じさせる古いものである。
ヨーロッパを感じさせるものは何だろう?それは石の建物,街並み, 石畳、そして街並みや林の向こうに尖った教会の塔が見えること、そこから鐘の音が聞こえて来ること・・・。



      教会は各地区にあり、今でも日曜日の午前中には教会に集まる人は(お年寄りを中心に)多い。
            定期的に集会や音楽会も開催されている。



2.ヴィスコンテ城  Castello Visconteo

 Galeazzo Visconti によって 1360 -- 1365 に建設された。現在は北ウイングが残されていない。
中はパヴィア市立の博物館になっている。敷地は手入れが行き届いていていつもきれいに整備されている。


                              

                  城の外壁と中庭、何となくイスラムの影響を感じさせる




3.広場  Piazza と Piazzale

 イタリアの街の典型的スタイル : 街の中心に Duomo があり,そばに Duomo 広場,塔と教会があり,これを取り巻いて Bar, Pizzeria や Ristorante がある。 Bar といっても日本のバーとは違い,むしろ喫茶店に近い。広場では市が開かれたり時にはコンサートも開かれる。特に催し物がなくても仕事の終わった夕方になると子供、若者からお年寄りまでさまざまな人々が沢山集まってくる,人々の交流の場である。 イタリア人は話が好きだ、パール (Bar) で、広場で、にぎやかに話をしている。ときには喧嘩ではなかと思われるほどエキサイトしている。また,バールではエスプレッソを飲み話は尽きない。 また広場は(Duomo 広場と限らず)街のあちこちにある。
一般人に英語は通じない。道を尋ねようと近づいていったら,大方の日本人が外国人が近づいてくると及び腰になるのと同じように,逃げ腰になった。簡単なイタリア語で問いかけたら,一気にまくし立てられた。 生活に必要な最低限のイタリア語を使えないと不便である。



                                    

                                       Minerva 広場 ここは広場というより交通の要所
                 初めてパヴィアを訪問したとき,駅から300メートルほど歩
                 き,この記念の像に出会いとても印象に残った。
                   私には力と知性の象徴のように思えた。



4.街角、通りと駅

 スプレー落書きの多いのには閉口した。特に列車や駅などに多い。街全体を見苦しくしている。ただ落書きする者も多少のモラルはあるらしく,大切な文化遺産にはしていない。内容は低俗なものから,アメリカのイラク侵略反対,反ナチ,なかには北部の独立を,などというものもあった。もちろん落書きは違法行為である。
 トイレの使用にも不便を感じた。大抵の駅にトイレはない,大きい駅にはあるが,有料である。これはイタリアだけでなくヨーロッパ各国そのようである。料金はだいたい0.5ユーロくらい。では外出したときどうするか?
列車のトイレで済ます,レストランで食事のときに利用する,あるいはバールに入って済ます。
 イタリアにはお風呂の習慣がないのでシャワーですませることになる。夏の間はそれほど不便を感じなかった
が冬になり寒くなるとどうしても暖かい湯舟につかりのんびりしたい,というのが日本人だれしも持つ思いであろう。


                     新市街      パヴィアの表玄関
                                    朝晩は通勤・通学客、昼は旅行客で賑わう。
                                  国際列車(ニース行きなど)もとまる。


 イタリアはほとんど国鉄である、f のマークが国鉄のしるし。 fero via の略である。しばしば時刻表より遅れる、10−20分遅れは普通。旅行計画を立てるとき乗り継ぎがある場合は余裕をみて立てないと大変。車内もかなり雑然としている。しかし運賃が安い!日本の半分くらいの値段である。もちろん日本と違い(ヨーロッパの鉄道は)改札口はない。検札は7割くらいであろうか,まわってくる。そのとき切符を持ってなかったり、乗車まえに刻印機に通すのを忘れていたりすると、きつい罰則(高額追加料金)がまっている。



5.オペラ劇場  Fraschini

  秋になるとオペラシーズンが始まる。パヴィアにも1771−74に建てられたというオペラ劇場 FRASCHINI が旧市街の中にある。月4回くらいの割合で上演される。ことしは Turandot, Il barbiere di Siviglia, Idomeneo, などなど・・・毎回ほぼ満席となる。値段は 40余 から 10余 ユーロくらい。もちろんオペラだけでなく音楽会も盛んである。2000年10月初めてパヴィアを訪問したとき,偶然 Pizzeria の中で数人の日本人と遇った。パヴィアで日本人に遇うのは滅多にないので,こちらに来た理由をきいた。そしたらピアノのコンクールがあるのだそうであった。隣の街で La Traviata (椿姫) が上演されるというので1週間前に切符を買いにいったらすでに売り切れということでがっかりしたこともあった。一般人の芸術への関心は高いようだ。

                                       幕間                Teatro Fraschni         Idomeneo


6.自然、公園

 夏は毎日快晴で,イタリアの象徴の真っ青な空である,日射しが強烈である。外出にはサングラスかけないと紫外線で眼を痛めてしまう。しかし日陰ではしのぎやすい。キャンパス内の草も刈って3週間もするとひざくらいに伸びてしまい,雑草刈りが大変である。


キャンパスの中で見かけた草の花、ピンクのクローバー


  市街地の北西に広大な緑地がある。そこは散歩やジョッギングのコースも整備されている。


夏も終わりの頃ハマナスが咲いていた、しかもめずらしいことに白い花のハマナスである。やはり北に位置する国なのだ。中を流れる川には白鳥が泳いでいた。

                           秋の  Ticino 川の岸の公園、夕方ともなるとベンチで話す人、ジョッギング
                               や散歩の人が増える。

 イタリアの秋はドライである,日本のようなもの寂しさはない。その辺のところをどのように感じるのかを学生に訊いたところ,喪失感があるということであった。どうやら情にまでは行かないようである。「小さい秋見つけた」のデリケートな感じは日本人独特のものなのであろう。日本の唱歌の世界が思い出されて,日本の繊細さがとても懐かしくなった。
 イタリアにいて日本の天気を見ていると,いかに日本の天候がめまぐるしく変化しているかが実感される。
一週間のうちに台風あり,快晴あり,気温の大きな変動あり,でこういったことも日本人の繊細な情緒を形成してきたことに関係しているように見える。
 パヴィア近辺では,雨はふってもほとんど霧雨程度で,傘をさしていない人も多い。ただ,10月下旬くらいからよく
霧が出る。日本で想像するようなロマンチックなものでない。長い時は3日くらい厚い霧に閉ざされる。車はフォッグライトをつけてのろのろ運転である,目前の景色も見えない。こうなると3日目あたりには何だか胸が圧迫されるような苦しさを感じるようになる。やがて11月下旬くらいから晴れ間も多くなる。これは北イタリア,とくにパヴィア近くの特有の気候であろう。

 全体としてイタリアは石,論理,不滅の文化,それに対して日本は木,情,滅びの文化であると実感した。 



7.パヴィア大学 Universita' degli Studi di Pavia

 イタリアの大学の数は約300でほとんど国立,修業年限は学部3年である。アメリカの大学ような、まとまった広大なキャンパスはない、ヨーロッパの歴史の長い大学はそのようである。キャンパスは街のあちこちに散在している。旧市街の中には文科系の学部がある。 Bologna 大学に次いで2番目に歴史の長い大学だそうだ。昼休みの時間が長い(1時間半)のもうれしい。

                                旧市街の中の文系学部                    Volta の銅像


                                     塔が時計台に                  総合病院

                                                   理科系キャンパスと建物

 数学科 Dipartimento di Matematica 

 数学の教員数が60余名、事務関係職員も十名の大規模な Dipartimento である。情報機器関係の専門職員もいる。理科系の他の学科とともに郊外にある。図書室は採光が工夫されていて明るい。学生の学習の場も広くとってある。ただし,中に入るには鍵が必要で,昼休みが12:30〜15:00まである。 教育も,最近の日本で多くなった短期終結のものでなく,伝統的な積み上げ式のものが行われている。分厚いテキスト1冊を1年生から3年生まで通して教えてみたいという思いがしきりだった。学生は試験ともなると,まるで入学試験をうけるくらい真剣になる。
かなり多くが教員の研究室に押しかけて質問や指導を受けている。


                                                 

                                        研究室の窓から外の景色      大学のある郊外
                                  遙か遠くアルプスが望まれる


 研究室の大きさは日本とほぼ同じ,中に作りつけの大きな書類整理棚がある,が水道がないのは不便である。
平日はほとんど毎日掃除の掃除のおばさんがまわって来る。たいしてゴミも出ないので少々わずらわしい。
Buon giorno!, Signora で挨拶し,終わって Grazie, Arrivederci !


8.大学寮  Collegio Nuovo

  学生・院生・教員・ゲストのための宿泊施設が充実している。食事は三食ついて1ヶ月750ユーロであった。これは安くはないが,部屋は個室だし,食事もなかなか良い内容であった。寮では土・日には帰省する学生が多い、また日本と違いアルバイトをする学生は少ない。敷地の中にはサッカー場や体育館もある。
     

                                            院生の寮           学生寮


                                                             
9.パヴィア修道院  Certosa di Pavia

 パヴィア市の中心から北へ8kmのところにある。カルトジオ会に属する世界でも5本の指に入るという有名な僧院だとか。壮大で華麗な正面のファサードはロンバルジア・ルネッサンスの最大傑作といわれている。
今なお修道僧たちが修行に励んでいるという。


                          


     修道院の正面へ続く並木道                               中庭

  修行僧たちは自給自足の生活をしている、そのため近くに農業の畑もある。
8月の暑い日曜日 Certosa から Pavia まで歩いた。イタリアの田園を歩きたかったからだ。しかしその試みはすぐ挫折した,まず田園の道が極めて不規則なのだ。それに加えて背の高いトウモロコシなど栽培されていて見通しも悪い。仕方なしに高速道路のわきの細い道をあるくはめになった。暑い暑い日だった・・・ただあちこちに下の写真にもあるように林があって木陰を提供してくれ,木陰は(日本の夏と異なり)意外と涼しかった。

10.パヴィア郊外

                                      
                                      
                          田園のあちこちにこのような林が散在する
                                                  これが田園に風情を与えている


                                  稲も栽培されている     農家の物置             刈りいれ後の田園

 夏の間はほとんど雨らいし雨はふらないのに,小川の水が涸れないのは何故なのかいまだにわからない。
日本では野の道にまで除草剤が使われていて,夏なのに雑草が枯れていて恐ろしい。そんなことはなく雑草も元気いっぱいである。農家一件当たりの耕地面積も大きく,大型機械による機械化が進んでいる。


11.パヴィアの地図


                          





 印 象 記

  護岸工事のされていない自然のままの川がある。中には水草が茂り魚やアメンボウが沢山泳ぎ回っている。日本では壊されてしまった懐かしい環境が残っている。7月に苺がスーパーにあった,黒ずんで赤い,粒は大きくはない,しかしその味の濃いこと! 日本では冬の年末・年始から出回る。ハウスの中でストーブを使い人工的に作り上げたものだ。病気や害虫に弱い,そのために農薬もたっぷり使う。ともかく沢山の人工的な力を用いる。その結果出来上がった”製品”である。巨大な粒で味は水っぽい,甘みもすくない。そして,はやくも初夏頃には苺は店頭から姿を消す。本来は初夏ころから出回る果物である筈である。
 スイカは8月に出回ってこれまた,コクがあり手がべとべとするほど糖分がある。価格も自然の恵み太陽の光に多くをゆだねているから安い,日本の1/3くらい。日本では苺と同じく年末・年始に出回る,味も水っぽく薄味。そもそも寒い季節に,体を冷やす果物であるスイカを食べることは体にもいい筈がない。 梨,リンゴ,ブドウ,(シチリアからの)オレンジが秋になると出回る。みなみなとっても美味しい,しかも安い。
 アメリカで始まったファーストフードに対してイタリアではスローフードが提唱されている。

 ・・・・パヴィア(イタリア)ではよく子供たちが外で遊んでいた。近年日本で見かけなくなった情景である。多くは広場でサッカーをしていた。上記果物栽培に例えるのは不適当かも知れない。だが同じ自然の中で成長するものである,また人類の長い歴史からみても,これほど自然から離れた生活をしているのはごく最近である,人間の体はそういう風には出来ていない,DNAの情報はそうはなっていない筈である。子供の時期に外で遊ぶことは心身の健全な発達に必要なばかりでなく,将来学問への関心が芽生える役割も持っているとも思えるのである。例えば外でキャッチボールをするとか,滑り台から落ちるとかが運動・力学の理解あるいは関心を持つことにつながるかも知れない。

 そのほかにも沢山印象に残ることがある。
 若者に日本人は働き者だと言われ最初はほめていてくれたのかと思ったら,実はどうやら金銭のために大切な自分の時間を犠牲にしていると皮肉られていたのだと感じたこともあった。しかしイタリア人は決して一般に日本で言われているほど働かないわけではない。
 少数の者に対してであったが,イタリアの伝統・文化に強いプライドをもっているなと感じた。
 若い婦人がお年寄りを支えて歩いている姿をよく見かけた。
 またお年寄りのご夫婦が手をつないで歩いているすがたもよくみかけた。
 古道具市もある。日本ではとっくに廃棄処分になるようなものを売っている。
 確かにいろいろな面でアバウトである。はじめはとまどったが,しばらくすると実に楽な生活法であると感じた。
 ・・・・・・
 大学では学生がよく勉強している、建物の中の通路のベンチや外の木陰のベンチなどに座って勉強している。講義中に私語はない・・・・・こんなあたりまえのことが今の日本にはない。
 おりしも中国が有人宇宙船の発射,回収に成功し,しばらくして日本が2回目のH2Aロケット打ち上げに失敗したというニュースが飛び込んできた。日本人の仕事は精密で正確無比と信頼されてきた筈でなかったか。

 日本はこれからどこへ行こうとしているのか・・・・・。


12.2007年初秋のパヴィア

 2007年9月にもパヴィアを訪れる機会があった。晴れると日射しが強く,日陰は涼しく爽やかである。
夕方になるとお年寄りたちが広場に沢山でてきて楽しそうにおしゃべりしているのが特に印象的だった。その理由はこのような光景を日本でほとんど見かけないからである。
 しかし秋だというのに,日本のように草むらから虫の鳴き声が聞こえてこなかった。日本では鈴虫,松虫,キリギリス,ウマオイなど,実ににぎやかに鳴いている。それがない,そういえば全体として人間以外の生き物の活動が少ないようだ。草々木々も日本の方が密生していて元気がいい。
 パヴィア近郊の丘陵の写真を紹介します。イタリアには(アルプス以外)高い山はなく,しかもそれらの中腹まで家が建っていることも多い。頂上には古城もあったりする,どうやら昔は山の上のほうが安心して生活できたかららしい。