数学の学習をする,あるいは数学の研究をするうえで役に立つと思われる,著名な方々の
言葉を紹介します。引用した文献のいくつかは
新潟大学附属図書館にあるのでご覧下さい。
岡 潔 小平邦彦
[ 1 ] 岡 潔
日本人数学者でアーベルやリーマンにも並ぶとまで言われる人がいる。岡潔である。
1954年 朝日賞(文化賞)受賞
1960年 文化勲章受章
文献
(A)岡潔ー日本のこころ,日本図書センター, 2002年
(B)情緒の教育,燈影舎, 2001年
あるいはWeb上で岡潔に関して詳しく知りたい方は 岡潔文庫 をご覧下さい。
最近岡先生自身の著作ではなく、岡先生の記録ともいうべき
(C)「岡潔」、高瀬正仁著、岩波新書 が出版された。これは入手しやすい。数学の詩人と
して紹介している、とても感動的な内容である。
(1) さすがに未解決として残っているだけあって随分むずかしく,最初の登り口がどうしても
みつからなかった。
毎朝方法を変えて手がかりの有無を調べたが,その日の終わりになっても,
その方法でよいかはもちろん,
これでは駄目ということの方も言い切れないのである。
これが3ヶ月続くともうどんなむちゃなどんな荒唐無稽な試みも
考えられなくなってしまい,それでも無理にやっていると,はじめの十分間ほどはよいが,
あとはどんなに気を張っていても眠くなってしまうという状態だった。(春宵十話)
(2) 全くわからないという状態が続いたこと,そのあとに眠ってばかりいるような
一種の放心状態があったこと,
これが発見にとって大切なことだったに違いない。種子を土にまけば,
生えるまでに時間が必要であるように,
また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように,
成熟の準備ができてからかなりの間をおかなければ
立派に成熟することは出来ないのだと思う。だからもうやり方がなくなったからといって
やめてはいけないので,
意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層に現れるのを待たなければならない。
そうして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している。(春宵十話)
(3) 論理や計算だけのお先まっくらな目では起こったことを批判できるだけであって,
未来に向かって見ることは出来ない。だからよくミステイクを(多くは致命的な)起こすのです。
(義務教育私話)
(4) 数学の目標は真の中における調和であり,芸術の目標は美の中における調和である。(春宵十話)
(5)数学は生命の燃焼によって作るのです。(文化勲章受賞後陛下の問いに答えて)
(6) 数学の本質は,主体である法が,客体である法に関心を集め続けてやめないということである。
このことは当然「算数」のはじめからそうなのである。
だから算数教育は,まだわからない問題の答え,という一点に精神を凝集して,
その答えがわかるまでやめないようになることを理想として教えればよいのである。
岡先生のお孫さんの宇田川きのみ様が,先生について著書等では知られていないことを
書いておられます。
宇田川さんの許可を得ていくつか先生の語録等をここに紹介します。
(7) 祖父は居間と自分の部屋を仕切る襖を決して閉ざしたりしませんでした,
騒音の中でも没入できねば嘘だと言うとおり,
騒音はなんら障害にならないらしいのです。
(8) 祖父はいのちあるものの死に対して,いつもたんたんとしているところを見せてくれました。
私の近い人が亡くなったときも,「みんな,ゆめなんよ」と,慰めてくれました。
(9) 「研究ハ危惧ノ念ヲ去ルコトガ大事デアル」と自身を戒め,研究を進めればすすめるほど
次々に表れる問題に対し,
「途ハ必ズアル」と,己を叱咤激励もしています。
(10) 数学も文学も宗教も遊びも祖父の中では仕切ることなく融合されていて
「こころを表現する道具がちがうだけよ」
と言ったのは自然なことと思えます。
[ 2 ] 小 平 邦 彦
1954年 フィールズ賞受賞
1957年 日本学士院賞,文化勲章受章
1985年 ウルフ賞受賞(イスラエル)
文献
(A)怠け数学者の記,岩波現代文庫 2000年
(B)ボクは算数しか出来なかった,岩波現代文庫本 2002年
Web上で小平邦彦の研究に関しての紹介は 飯高先生のホームページ をご覧下さい。
(1) 研究でなく,ただ本や論文を読むときでも数学は非常に時間がかかる。
証明をとばして読んで行くと何となく印象がうすくなって,
結局わからなくなってしまう。数学の証明を読むことは単なる論証ではなく,思考実験の
意味があるのであろう。
そして証明を理解するというのは,論証に誤りがないことを確かめるのではなく,
自分でもう一度思考実験をやり直して見るということであろう
(2) (夏目漱石の「夢十夜」の中の運慶が仁王を刻む話の引用の後)私の
楕円曲面論は実は私が考え出したものでなく,
数学という木の中にうまっていた楕円曲面論を私が紙と鉛筆の力で掘り出したにすぎない,
というのが私の実感であった。(私の履歴書)
(3) (よい問題とはという問いに答えて)一言でいえるのがよい問題なのです。
数学は何だと思いますか,何か実体のある,コロンブスが西に行きアメリカを発見したそんな
・・・
何か新しいことをやりなさい。(数学の歩み)
(4) 定理をよく理解するためには,証明を一度読んだだけでは不十分であって,何度も読み,
ノートに写し,さらに種々の問題に応用してみることが有効である。
(5)形式主義によれば数学はそれ自身は意味をもたない記号を与えられたルールに
従って並べて行くゲームに過ぎないとうことである。
これは数学の最も本質的なものを見落としているのではなかろうか?
私のみる所では,数学は実在する数学的現象を記述しているのであって,
数学を理解するということは,窮極において,その記述する数学的現象のイメージを
いわば感覚的に把握し,形式主義では捕捉できない数学の意味を理解することである。
[ 3 ] 広 中 平 祐
1970年 フィールズ賞受賞
2004年 レジオン・ドヌール勲章受章(フランス)
文献
(A) やわらかな心をもつ 小沢征爾・広中平祐, 新潮文庫 1990年
(B) 科学の知恵 心の智慧 広中平祐 佼成出版社 1985年
次に引用する文章は(A)の小沢征爾氏と広中平祐氏の対談集からのものである。したがって口語調になっていることをお断りしておく。
(1) またある人はこのぼくが見ていても感心するくらい鈍感でさ,なにかしら自分一人で一生懸命
こつこつとやっている。同じ問題をほかの人がやっているかどうかも知らない。
だからほかの人にだしぬかれることも少なくない。だけどそういう人のつくる良い仕事は本当に良いね。
流行に乗ってかっこ良くやっている人の仕事にない,独特のよさがあるね。
(2) 現在までのぼくの強力な基礎になっているものといったら,たとえば,
困ったときにも頑張るっていう気力よね。それから,少々失敗してもそれをなんとか
成功に転換してみせる粘りとかさ。
それから,人の気持ちを汲み取る感受性とかね。
そういうものが,いままでのぼくにとって,もっとも大切なことだったと思うね。
(3)ぼくら数学やっていてもさ,あるところで確実に基礎を知ったと思ってもさ,
一年も経つとやっぱりわかっていなかったんだと思うことがあるわけよ。
それを繰り返してやっと徹底的に知るわけよ。
(4) 問題を解こうという時に,初めから答えがあるというよりは,どっちに転ぶかわからないという
ような問題と対決してて,ある時は正しいと思うし,ある時は反例があるかもしれないと思う。
それから,問題そのもののフォーミュレイションがキチッとしていないかもしれない。ほんとうに
正しい問題の設定はこうだったと後から気が付くかもしれない。・・・先入観を捨てて
そのものを見通そうとする態度よね。
(5) アメリカの大学生なんかでもずーと見ててね,だいたい,予測の速いやつってのは
伸びないね。その,聞いてね,「わからん」と考え出してね,一週間ぐらいしてね,
「わかりました!」って,やってくるやつの方がさ,将来伸びるね。