知的エッセイを味わう楽しみ
新潟大学理学部 吉 原 久 夫
香本氏が折々にものされるエッセイを、私は以前から愛読させてもらっているが、このたびは比較的最近に書かれたものが集められて一冊になり、まことにうれしく思っている。ここでは、私の専門にゆかりの深い小平先生の『怠け数学者の記』を軸にして展開された作品を中心としながら、いささか感慨を述べてみたい。
本書に収録された『小平邦彦‘怠け数学者の記’を読む』は、じつに面白い作である。 次々と千変万化にくりだされる話題の面白さと、それに対して著者の披露する見解に、眼が開かれる思いで手放せなくなり一気に読んでしまった。このような体験は、私の場合「岡潔」氏の一連の随筆を読んだときがまず思い起こされる。これ以外で同様の体験となると、ほとんどが小説であり、心理描写の面白いドフトエフスキーや夏目漱石の作品などであった。 岡潔氏については、今ではご存じない人も多いかも知れないが、この作中の「『春宵十話』を読んだころ」という章に少し解説があるのでご覧いただきたいと思う。こういうと、この作品が何やらむずかしく、堅苦しいような印象を与えるかも知れないが、実際は著者の小学校時代からの体験をもとに、折に触れてのさまざまな話題がわかりやすく具体的に語られているので気楽に楽しめる。では、どこにそれほど惹かれて手放せなくなったのか。
この作品は、著者が小平邦彦著『怠け数学者の記』を読んだ感想を中心において、関連するさまざまな話題をとりあげながら、随所で著者の見解を披露したものである。すると普通の書評か随筆のように聞こえるが、実は全く違う。この作品を分類するとなると、既成のどのジャンルにも入らないように思う。随筆、評論、自伝、書評、解説、提言・・・どれもぴったりのものがない。しかしこれらのどの性質も持っている。著者の高校時代が内面から活写されているあたり、半自叙伝的色彩も濃厚だ。あわせて収録されている他の作品群、とくに表題作の『娯楽としての読書』なども同様の性質を持っている。いずれも独特の内容に加えて、形式上からも新しい種類の本かもしれない。この本の最大の面白さは、著者自身の体験に裏打ちされた、なるほどと眼を開かれるような珠玉の見解が諸所にちりばめられているところにある。現実的なことから理念的なことまで、その範囲はきわめて広い。現実的な話題では、それがすぐ実生活や仕事のうえで有益なこともある。たとえば、われわれはしばしば他人を安易に批判することがある。そのような傾向に対して、著者は高校時代の経験をもとに、次のように戒めているが、ここでは一般に誤解されることの多い「価値観の確立」という言葉の意味が慎重に吟味されている。
「誰しも自分が価値を認めている事がらを話題にするときは適切に話せるものだが、自分が嫌いなこと、自分があまり価値を認めたくないと思っている事がらにふれるときは、つい単純否定に陥って失言をしやすいものである。この失敗を防ぐには、日頃から自分の中に、よく吟味された価値の体系というものを確立しておく必要がある。つまり物事を肯定と否定に二分類する癖をあらため、あらゆるものについて、それが占めるべき位置を自分の価値体系の中に見つけておくのである。・・・(中略)・・・
価値観の確立ができると、およそ存在するものは何らかの役割を担って存在しているのであるから、単純に否定できるものがほとんどなくなると同時に、それぞれの事物が占めるべき位置をその価値のありかたをふくめて認識するようになるので、全体を矛盾なく掌握できるのである」
また別の個所にはこうある。
「自分がよく知らない事柄については発言を控え、沈黙を守るのは、無知のしるしではなくて知恵の証しである」
なるほどそうである。いっぽう、理念的な内容に関する見解もたくさんある。その一例として、『小平邦彦‘怠け数学者の記’を読む』が書かれるもとになったと思われる箇所をあげておきたい。つぎの文章自体は小平氏のものであるが、恐らくこれは著者が内々に感じていたことを小平氏が明確に述べたもので、著者と小平氏の共鳴の原点を示す一節であり、ここで特筆しておくに価すると思う。
「物質的自然界が数学の対象よりはっきりした実在だという一般的な考え方を、私は疑っている。・・・さらに最近話題になっているブラック・ホールは、もともとアインシュタインの一般相対論の方程式の数学的な解にあらわれるだけで、まさか本当のこととは思われなかった。それがどうも実在するらしいというのだから、数学が単に物理的事象を記述する言葉だとはとうてい思われない。・・・私の感じでは、むしろ物理現象の背後に数学的現象が実在していて、あらゆる自然現象はこの数学的実在の上に乗って存在しているのではないか」
哲学書のように難しく思われる内容を、卑近な例を沢山あげつつ、気楽に楽しく読めてしかも実在論の深みにまで読者を引き込んでいるというのがこの書の魅力である。著者の数学に関する見解は、ほぼ私のものと同じである。これまでの経験から、私自身の見解は大方の数学者のそれと同じだと思うので、これは驚くべきことである。数学に関しては非専門家の著者が数学の本質を見抜く眼の非凡さを証明しているといえよう。「複素関数論との出会い」という章はぜひ多くの読者に読んでほしいと思う。ここでは数学そのものが語られているばかりでなく、その周辺にまつわる、さまざまな示唆に富む記述が多い。
さらに、第二部の冒頭では、これまで数学者が世間に知らせることを怠っていた、数学に対する世の誤解がじつに明瞭に指摘されている。
「一般に,数学を専門にしない人が数学を学ぶ意義は,論理的なものの考え方を身につけることだといわれている。しかし本当にそうだろうか。・・・数学は論理の皮をかぶっているので,かなりの知識人でも数学の才能を論理的思考力とまちがえている人があるが,本当はこの感受性(数学的センス)に対応して成立している特殊な学問なのである」
実際、私自身30年近く数学の研究をしているが,論理には一向に強くなっていない。まわりの数学者をみてもどうやらそのようである。論理でいえば実験科学者のほうがはるかに強いように思う。上記のような誤解のほかに,私の体験としては,素人の数学愛好家などがときどき,数学に対し誤った主張を述べたてて辟易することがある。ある愛好家が「非ユークリッド幾何の非存在証明」なる講演を行なってビックリしたこともあった。もっと初歩的なことだが,社会的に高名な方が「この世界(その方の職業)は数学の世界と違って1+1は2でなくて,3にも4にもなる」というようなことを述べたりする。たとえ比喩にせよこれは歓迎できない。(註)
本書は話題があちこちに飛ぶので、一見バラバラに見えるが、厳然として全体を貫き統一するものがあることは、よく読めば明らかと思う。それは表現がむずかしいが、「実在論」あるいは「本質論」と言ってもいいだろう。そのような硬派の話が娯楽小説のように面白く一気に読めることが不思議である。理由はおそらく、著者が「実在論」というものを深く捉えていて、つねに実感を離れずに語っていることにあるであろう。
近年若者の理数離れが深刻化して、日本の将来を心配する声が聞かれる。本書が若い世代に愛読されて、若者に数学や理科に対するまっとうな関心を呼び起こす一助となってくれればありがたい。それと、世間一般の方々に、数学というわかりにくい学問に対する理解を深めていただく契機になればと思う。おたがいに「ものごとの本質をみる」眼を養うように気をつけたいものである。こんな重要なことが面白く読んだ本の副産物であるとはありがたいことだ。広く読まれることを願ってやまない。
(註)
その理由であるが,数学に対する世間の誤解を増長させる可能性があるからである。数学と違って 1+1 が2でなく,3にも4にもなったりするという言葉の裏には,数学のように硬直した世界でないとか,型にはまった世界でないとかという誤解があるようである。実は数学ほど自由性のある学問はない(と思う)。数学では矛盾がなければ,その研究が価値があるかないかは別にして,どのような研究も許されるのである。また,1+1が2でないなら,至る所事故が起こってこの世はすでに破滅している,否,本書の中にも述べられているように最も深いところに数学的事実は存在していると思われるので,そもそもこの世は(このような形では)存在していなかったはずである。更に言えば,1+1が2でないならならそのような職業では1のまま,あるいは0になった可能性もあるのでないか。3になったのは偶然で,つまるところ予測と推論の甘さがあったのでないか。