2.お伝記

 辨榮(弁栄)聖者をご紹介します。聖者は新潟ともご縁が深くあられた,晩年はしばしば新潟県に
御巡錫になられ,お亡くなりになったのは柏崎であった。
詳しくは最後の章12の文献,特に田中木叉著「日本の光」を読まれる
ことを是非お勧めします。この短い場所でお知らせできるのはごくわずかしかできませんので。

比較的入手しやすいと思われる参考文献を次にあげます:
「日本の光」  田中木叉 光明修養会 
「一葉舟」 (辨榮上人伝) 岡潔  読売新聞社
名僧列伝(四) 紀野一義  文藝春秋社
浄土仏教の思想14 山崎辨榮,  河波 昌  講談社


                                                  


「日本の光」を中心に,これから少しずつ書き加えて行く予定です。引用の言葉はかなり古めかしいですが,
そのままにしておきます。 現在「日本の光」は入手困難ですが(脚注1)
大きい図書館あるいは(運がよければ)古書店で入手出来るかも知れません。

「一葉舟」でも述べてありますが,全く頭が下がるのは辨榮聖者に一点の私心もないことである。
これが人かとさえ思う。 それに比べればわれわれの身体を構成する細胞は,
私利私欲という強い引力でお互いに結びついているのでないかとさえ思われるほどです。



1.出家するまで

  安政6年(1859)2月20日,下総国鷲野谷(現 千葉県東葛飾郡沼南町字鷲野)の農家山崎嘉平と,
なおとのあいだに長男としてうまれた。幼名を啓之助という。 
明治維新に先立つこと10年,冬眠の日本が驚きさめて,世界に門戸を開いて
新しい 西洋文化の流れこむ道をつけたころである。
東西文化が交流し融合せんとする世界の焦点,日本にあがったこの呱々の声は,
人の世に何をもたらさんとして,わざわざここに 縁起したのであろう。
この萌え出でた新芽のいのちの底に光る深い意味を誰が知ろう。


                    辨榮聖者御降誕歌
                                     --夏山敬讃--

             開け行く世のねざめの床に
             奇しき生命の謎をば秘めて
             東の海の日出づる島ゆ
             みよ光栄の光はさしぬ

             安政六年如月二十日
             救世の誓ひの胸やるせなく
             昔ゆかりの名も鷲の谷に
             法の御相分け出でましぬ

             小金が原の暁の霜
              筑波の山の夕ぐれの雨
              ひまなくはげむ三昧の床に
             無上覚位うけ継ぎましぬ

             明け光の教への下に
             千霊五百霊さきはひ栄ゆる
             御法の父の世に生まれましし
             けふのよき日をいざや祝はん



幼少期の啓之助は,おとなしく,あまり口をきかず,荒々しいことは嫌いで,
他の少年が殺伐なことをしても,仲間に加わらず,ただ眺めているだけであった。

12歳のころから医王寺(近くのお寺)から仏書を借りて読み,また写した。そのころのお歌に

                   仏にも神にもなると聞くからは
                   吾は聖にならまほしけれ

とある。
15歳より独学勤農,田畑あわせて3町あまり作る農事に父上を手伝い,
田畑の仕事のみならず,米つき,縄ない,藻ひろい,薪売りなどずいぶん働いた。
それとともにうまず屈せず独学で勉強し,驚くべき知能を示した。
聖賢の書はことごとく読み,野良でも家でも少しの時間にも勉強していた。
夜分も遅くまでカンテラか行燈かで書見していていつ寝るか家人の知らぬ時が多かった。
人の眠りを妨げまいとの心がけか,行燈の光を着物でおおうて,
燃ゆる油の音さえ聞こえる真夜中を,なお一心に写しものをしている。

述懐に

                     吾亦無他望  唯楽賢聖道  
           開看万巻書  天下亦無遺


2.道

24歳の年に「一心法界」を会得する,そのときのご様子:

予,かつて華厳の法界観門に由って,一心法界三昧を修す。行住坐臥つねに観心止まず。
ある時は行くに天地万物の一切の現象は悉く
一心法界の中に隠没し,宇宙を尽くして唯一大観念のみなるを観ず。
また一日道灌山に座禅して文殊般若をよみ,
心如虚空無所在の文に至って,
心虚空界に周遍して,内に非ず,外に非ず,中間にあらず,法界一相に真理を会してのち,
心常に法界に一にせるは是非平生の心念とはなれり。
之すなわち宗教の信仰に所謂,光明遍照中の自己なり。
大円鏡中の自己なりと信ず。


また,この年8月から2ヶ月筑波山に籠もって念仏三昧に入る。
身に纏うものは半素絹食物は米麦そば粉などにて。
無辺際の浄土に無量寿如来了々と現前し給う。

                     弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
                     一心専念能所亡 果満覚王独了々



3.経をほどこしつつ

飯米がない。村人からあるいは甘藷,あるいは麦をいただいて飢えを凌ぎ,
三日くらいは食べるものなき時もあった。お困りでしたろうと尋ねる人があれば,

上人 「時々断食してみると,身も心も軽くなり,よい気持ちです」

季節の衣服がない。襦袢にくんをあてている。見かねた人がひとえものを供

上人 「お陰で信者の家にお経を読みに行かれます」

古くなった着物に虱がわいたのを決して殺さず日向に出してその去るのを待った。
冬も火鉢はもちろん布団もない。朝早く訪ねた人が上人のおつもりに藁切れが
着いているのが可笑しく,わけを聞けば

上人 「この頃は寒さが強いから,藁を着て寝ます」

良い下駄を供養するものがあれば辞退して,

上人 「坊主によいものはいりませぬ」

ある日訪ねた信徒が,上人が土鍋で白い汁を煮ているのを不審に思い,何ですかと尋ねると

上人 「これは白米のとぎ汁です。米の方は来客に出してしまったので,
今日はそのとぎ汁を飲んでいます」

田舎道で小さな農家の前で子供が何かむづかって泣いているのを見て,路用の金で遠くから
菓子を買ってきてやり,橋銭にこまったこともあられた。
道に這う蟻を気を付けてさけて通られる。子供がこれにいたづらをしている所を見ると,
円みのあるやさしい声で

上人 「蟻蟻さんの子や兄弟が泣きますよ」

さした蚊を潰すものを見ると

上人 「そうしてたたくと蚊の針の先が体にのこって毒になります。そっと追うと針を抜いて去ります。」

「やみの夜になける蚊のこえかなしけれ血をわけにけるえにしおもえば」


上人「聖浄二門は裏表である」

ある日上人と吉田師と由比ヶ浜の波打ち際を徘徊中,吉田師が足先に邪魔になる竹切れを
片足あげて 蹴散らすと
上人「すべて形あるものは皆仏性を備えています。荒々しく扱わないほうがいいでしょうね」。

ときどき吉田師が随分横理屈をいって上人にぶつかると,上人はいつもにこにこして静かに
親切に 答辨される。
時に吉田師の談論が少し脱線すると,上人は黙ってしまう。

ある時随行の人,上人の金をよくごまかしていた。上人はご存知でありながら一言もいわず,
知らぬ顔をしておられた。上人一族中の某女が
「このごろ随行の某氏に世上とかくの風説がありますが」
ともうしあげると,
上人「ハイハイその方はほんとうになにくれとよく気をつけてくれますので,
私も喜んでおります」

仏教学者の人に向かって,
上人「出離生死の道を求めて一冊でも読んだことがありますか」

横にならず念仏しながらそのままお休みになることもある。
上人「撞木の音が次第に細くなっていって,ついに止まり,ハタと横に倒れようとする時,
千尋の谷底へ落ちこむような気持ち になる。その間は十分か十五分くらいであろう。
寝るのはその間で十分だ」

4.新しい法門

一味の仏法が分派した小乗大乗,聖道浄土等,
各系統の真理特色を破るに非ず,ことごとく活かしてこれを整理統一し,
さらに一方東西哲学も,セム民族の宗教(註:ユダヤ教,イスラム教,キリスト教)も,
現代科学も総合整理していわゆる「宇宙の真理をことごとく」
統摂する法門。
かかる法門の建立,これは一に如来の霊徳開示にまたねばならぬ。




5.顕赫


大正2年9月上人は一年有半にわたる筑紫の旅に親しまれた空に
薄雲がちぎれて,早や初秋の肌寒い東路をさして若松より戸畑への渡し舟に
お乗りになった。見送り奉る道俗男女さながら慈父に別るるごとく,
みあとを慕う目を潤ませてなごりおしくも「いよいよお帰りになるようになりまして」
と申し上げれば,念仏のすすめらるる所をわが家として,別に定めた
わが家とてなき一生行脚の上人は
「わたしには帰るというところはありません」。
慈光輝く上人の影薄れ行く舟のあしに残された人々
の,いつまでもいつまでも帰られずたつ岸にすがるがごとく
よする波の涙の人のなむあみだぶに響きを合わせる音までが,
玄界灘の陰気な入り江に淋しい秋をすすりなく。

ある寺では40度近い熱を平気で説法された。
また5月末,栄源寺では朝にかけて下痢14回にもおよんだ体を押して,
法生会ご出勤,かつ説法もなされるのに,いかにも愉快な面持ちで
かく「病気と角力をとらるる」
ことは希ではなかった。

上人「急がねば日がくるる,あせると足が地につかぬ」

大正9年7月23日,筑前若松安養寺出発。九州とのお別れとなった。
上人

                         今朝はいよいよ別れとはなりぬ。
                         元よりの兄弟なりしも,会わざる以前は知らずなつかしからず,
                         会い見てぞ因縁の糸生じ,心には常にこの糸をたよりにて念う,
                         また此の糸に引かれてぞ相まみえん。


上人には自説の顕正のみあって,決して他説を破邪することがなかった。
他の祖師たちのような迫害を見なかったのはこういう理由からであろう。
上人には

                         すべてが不完全から完全に向かう姿と見えたのである。

           何をおたずねしても
                         「それがよい」(イエス)と
                         「それでよい」(ノー)

と二通りにしかお答えにならなかったということである。

衆生済度のご苦労の御生涯を大正9年12月4日,62歳で閉じられた。最後に残されたお言葉は

              「如来はいつもましますけれども衆生は知らない。
                  それを知らせにきたのが辨栄である」

12月7日しんしんと降りしきる雪の柏崎極楽寺(脚注2)で密葬された。法号は
「仏陀禅那辨榮上人」
である。




                   辨榮聖者哀悼曲
                                 --一郎敬讃 --

               落ち葉散り敷く 初冬の朝 
               薄もや未だ 四辺をこめ
               野末のはてには 闇きえうせずに 
               風吹く 悲愁の日

               無上無二なる 我師は逝きたり 
               師走四日の 暁空
               北国雪降る 時に先立ちて 
               み柩雪蔽はむ

               雪に埋みて み骸うせはてぬ 
               睫の涙 凍りりはて
               人の胸の血は 冷たく冷えむに 
               唄えよ 悲哀の曲



(注1) 「日本の光」ですが,平成9年に光明修養会から第5版が出版されており,
〒873 大分県杵築市大字南杵築380 財団法人光明修養会,Tel.09786−3−3743
から購入できると思います。

(注2) JR柏崎駅から歩いて10分ほどのところにある,国道から極楽寺へ至る道の左にお墓もあります。 
新潟県は聖者とは縁が深い,新潟市善導寺,長岡市法蔵寺や県北にもしばしば御巡錫された。