3.不思議なこと
われわれは2冊の異なる本を左右に置いて同時に読めるだろか?
読むどころか同時に見ることすら不可能である。
右手と左手にそれぞれ筆を持ち口には筆をくわえて,
3つの異なる文を同時に書けるだろか?
同じ文ならなんとかできるかも知れない,しかし異なる文では全く手が動かない。
一つの米粒に筆で心経(280余字)を書けるだろうか?
一つの文字ですら書けるかどうか?
普通われわれは一時に一つのことしかできない。
これらのことを聖者はいとも簡単にやってのけた(という)。
それらも残されている。
しかし, これらはいわば聖者の,われわれには想像も及ばぬお力の結果として出てくることで,
これ自体が価値 があることではない。
しかし聖者のご力量を知ることが出来ない我らは,表に現れた五官に捉えられるものでしか判断できない。
(注意すべきは,自分にわかる範囲は自分の持っている力に依存することである,
すなわち自分の力以下の部分しか捉えることは できないことである。)
いくつか聖者の不思議なお力について紹介します。
それらは多数の方々の証言とともに御遺墨集として残されている。
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(1)
言葉が聞き取りにくく,たまに人がきても挨拶よりも称名が先で,世間話など全くしない。
話はしながら手は遊ばせず何か仕事をしておられる。
米粒に数体の仏像や三百字くらいはたちまちに書き与え,また左の手や,足や,
口や額に筆を結びつけて,
所望の人に書を書き与えられた。また書物は当時よく 往復した東漸時から持参し,
二冊同時に読むこともあった。 (一冊ずつ平行的に読むのでなく2冊を目の前において同時にである。)
原稿には書き直した所がほとんどない。定中にあって,はたらく心の, いかに整っているものであるかを
よく示している。(日本の光305ページ)
明治32年荒井山九品院において七草法要があり,6千人くらいの
参詣者があった。そのとき,米粒を洗わせておいて,左の掌に摘み入れて,親指と
人差し指で摘み上げて右手で名号を書く。
その間,謁見者と語り,説教もし,続けざまに書いて6千人全員に行き渡ったという。
(2)
ある日大垣のある寺の閉めたお部屋で渡辺氏がおそばにいると,今に人がくるから云々と氏に
用事を言いつけられる。
氏どうして知れますかと尋ねると,
「今向こうの松原の松陰に馬が通っている。その後に訪ねてくる人が歩いている」
といわれる。部屋の中から松原さえ見えない。しばらくすると果たして訪ねてきた。
渡辺氏が伊吹山にこもって念仏して,上人のもとに帰った時であった。
上人は米粒を左の手のひらにのせて,同じ左の親指と人差し指で 掌の粒を
取っては書き書きしておられる。
氏がお部屋に入ろうとして,ふと隣室からみると,ネズミが2匹いて,一匹は
上人の手のひらに,一匹は膝にあがって,平気で米粒をたべている。氏は驚いてしまった。
そっと部屋に入るとネズミはたちまち逃げてしまった。氏
「上人いまネズミがいましたね」
上人「うむ,いた。」
氏「なぜ私がきたら逃げたのでしょう。」
とおたずねしたら,上人
「それはお前がえらいからだ」
明治29年9月に松戸の松隆寺に行かれたとき,江戸川べりを通っていて上人は急に立ち止まって
合掌念仏した。侍者がそのわけを訊くと,水底に死体があるといわれた。
侍者は二合半という村に来て村人にそれを話したところ,
水死人の死体が上がらず困っていたところだったので,
村人は半信半疑その場所を探してみたところ,果たして水底に死体を発見したという。
上人 「預言ができるとか,病気がなおるとか,そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。
これほど大きい奇蹟がまたとありましょう。」
(3)
食事も皆と一緒の食卓で,いつもにこにこと好々爺になって,
皆がすれば世間話もあい槌を打ち下され,同席のいかなる種類の人をも
たとえ信者でなくとも,あるいは道楽な人にでも,
決して煙たがらせることはなく,平凡な,なつかしみのある,
実父といった態度に,くつろがれる。
聖人とか高徳とか,いう気を少しも与えられなかったので,いかなる人が接しても
たいして偉くない人に接しているようなうち解けた気分で,
くつろいだ。
身の上のこまごましいことまで,行き届いた注意と理解のあるさばき
をして下さった。
あたりを払う気品のおのづから凛とした中に
誰に対してでも謙遜で温かく,いかなる人にも一歩は高いが
いかなる人にも二歩とは高くないお親しさに,うち解けて
敬と愛との一つになった,敬とも愛とも区別のつかぬ,
一種特別のなつかしさで,引きつけられていった。
師父という言葉がよくあてはまるところの,実に恩師で
同時に慈父でいらした。
だが,もう一つ,赤々として輝く威神の光,ひとみに,言葉に,指の先に,
また一寸した肩のゆらぎに,寸毫の悪も赦さぬ,あらゆる邪を払う,ちぢみあがらせるような,
きびしい,神々しさが,無言の中に接する人の魂を清めて下さった。
いささかでも身に覚えのある,しかしながら忘れている悪が,
傷もつ人の心の奥から,X 線写真のように,むずかゆくでてきて,
表皮と真皮との間を虱でもはうように,いやでいやで,とてもつつんでもかくして,
ごまかしてもいられなかった。
御一生のことであるが,朴歯の下駄履きで,音もせず歩かれる。
決して傍を見られない,
下駄の歯が少しも減っていなかった。上人にわけを聞くと,
上人「私は如来さまにおぶさっているのだから」
家の中でも端然たる威儀を少しもくずされたことがない。
もの静かに落ち着いていて,
いつも白衣の法衣をきちんと召されていて,
言葉少なく声も低く,
新聞の世間の出来事 など申し上げても,上人はただ,
「さようで」。
それも語尾は消えてしまいそう。
大笑高語などされたことがない。
寒中でも傍の火鉢 に手をかざされない。
お胸の所で組み合わされたままである。
それでいてお傍らに出てもすこしも窮屈でなく,
なんだか心丈夫で,なんだかうれしくて,
いつまでもお傍らにじっとすわっていたくなるのであった。