5.    聖   歌      


 よ ろ こ び の ひ か り


いろはにほへどちりぬるを  もももさくらもひとさかり

げにあだしよのはかなさは つねなるものそなかりけり

ひとたびひらきてとことはに かはらでにほふはよろこびの

ひかりによりてさきにける  ひとのこころのはなならめ


聖 き み く に




聖き啓示を被むりて 三摩耶の窓し開くれば

清きみ天は朗らかに 常世のみ國現はれぬ

雲に聳ゆる高棲は 金銀まに真珠

瑠璃宝石の荘厳の 照り輝くこと窮みなく

七つの宝の池見れば 八の功徳の水みてり

金の沙はきららかに 清める面にぞ照り徹る

宝の樹に玉の枝 金の花は咲にほふ

みそのに遊ぶ楽しみは 無為の都の春ながし

天つ乙女は雲を分け 奏づるしらべ妙にして

ひべける音の楽しさは 身のおき処も覚ほえじ

日々に六度の花の雨 金の庭にぞふりつもる

きしの山吹苑がらに 何の色ぞとまがふらめ

三昧の筵に座を占て 仰ぎ奉つれば弥陀尊

烏しつの緑は天にこい 五山のごう光かがやける

金の相好妙にして 月のみ顔は円かなり

巍き威儀は厳そかに 萬の徳は満みてり

菩薩は妙なる法身に おのおの威徳備はりて

如来をめぐりし装ひは 雲の月をかこむ如と

無為ないおんの境には 長閑さ有無を離れにき

大悲心に薫じてぞ 分身利物の極なけむ



     清  浄   光


にごりにいでていさぎよく さけるはちすのかをりこそ

きよき光に開かれし 人の心の花ならめ


あかねさすてふ朝日影  みるもはばゆく輝くは

清き光に照らされし 人の心にたぐいてん


みがきて照らすまにの珠  ねりてかがやくこがねこそ

きよき光にみがかれし  人の心の色ならめ


雲をあらしにはらはせて  さやかにてらす秋の月

きよき光に照らされし 心のすがたにたぐいてん


富士のたかねに白妙の 雪のすずしき色こそは

清き光にみがかれし 人の心のすがたなれ


     歓  喜  光

くるしき海は限りなく  まよひはふかくそこもなし

めぐみの船にのりえたる   人の心は安らけし


うき世のうみは広くして なやみの風ははげしくも

めぐみのみなとに船とめて やすらふ心はやすらけし


朝日ににほふさくら花 八重ここのへはよろこびの

光に開きてうるはしき     人の心にたぐひてん


ひとたび開きてとことはに かはらぬ色はよろこびの

光にあひてうれしさの      人の心の花ならめ


天にも地にもよろこびの  光はあまねくみちみてり

心の花の開くれば    とはにのどけき春ならめ


        ミ オ ヤ の 光 か ら

夜を日についで,あなたをほむる。たのしきみひかりを与えたまえ。

まごころをささげて,すくいをいのる。かぎりなきいのちをあたえたまえ。

みひかりをあおぎ,みむねにしたがう。やさしきこころをあたえたまえ。

みひかりによりて,こころのあかきえて,やすらけきこころをあたえたまう。

聖き御名にむねのくもはれて,ささやかに月はてらしたまう。



        釈 尊 の 本 懐

如来無尽の大悲より        三界の子を哀れみて

釈迦牟尼と現れて          ひろくおしへをひらきまし

世の群萌をすくわんと        ほかの方便をさしおきて

正しく出世本懐の           弥陀の法をのべたまふ

世尊大事の因縁は          衆生本有の法身より

わかれし本具仏性を         開きて清きに悟らしめ

かたちに受けたる煩悩を     霊化し菩提の徳とはし

知徳を並べ備へては         真の佛子とせむがため

衆生はしなくさまようは        あたかもくらき月の如と

ミオヤのとわに照らす日の    えいずるかげのかけみちは

すなわち菩薩の階位にて     新月すすみて十五なる

浄満月は正覚の            佛位に登りし姿なり

くらきにまようふは凡夫にて 菩薩は分に光りを得

まどかに照らして満ちぬるは すなわち仏陀のさとりなり





       (注)これらには「ミオヤの光から」以外には曲がついています。