市民一般向け新潟大学 公開講座の講義概要                       

                         数学と仏教の意外なつながり

                                 新 潟 大 学 理 学 

                                 吉  原  久 


§1 はじめに

あらゆる学問の中で最も客観性があり普遍性があるのは数学であろう。

数学の主張は時間・空間によらないで常に不変である。
ユークリッド幾何学はギリシャ時代から
2000 年以上たった現在も変わることがない。
またどの民族がどんな宗教を持っていようと地球上のどこでも数学の主張は変わらない。

古代ギリシャでは知性に他のものの制約を受けないで完全に自由である,
という自主性を与えた。数学史をみても,万人の批判に耐えうる形式を備えたものは
ギリシャに由来するものだけである。これは人間の大きな文化遺産の一つである。

一方仏教もほぼ同じ頃インドで全く異なるスタイルで仏陀により開かれた。

古代インド征服民族の間では林間静座法の修練が発達していた,仏陀はこの三昧の方法,
すなわち五官を閉じて精神を内面に集中して,深密なる宇宙本有の真相に迫るという
方法によって悟りを開かれ,これが仏教の修行法の一つになっている。これも人間文化
の大きな遺産である。

このように数学と仏教は全く異なる発生原因を持ち,その後の歴史も一方は
西洋に他方は東洋に伝わり大きく異なった。更に仏教は人間の救済を目的とするが
数学はそういうことには全く関係しない。

これほど大きい隔たりのある両者に何らかの関連はあるのだろうか?

興味深いことに幾何学はギリシャで発生したが,一方現代の数字である
アラビア数字はインドの記数法がアラビアに渡ったと言われている。
またゼロの概念はギリシャにはなく,これもインドで発見されたという
([y])


§2 論理展開の方法

客観性と普遍性のある数学は完全に厳密な論理展開をしている(筈である)。

どのようにそれをしているのだろうか,また完全に厳密ということが可能なのか? 

2つの形式(1)定義 と(2)公理 に注目してこれを調べてみよう。

(1)定義について

数学も言語あるいは記号を用いて主張を記述する。すると議論をするに当たって
言葉の持つ意味を正確に決めなければならない,これを定義という。では完全に
厳密な定義は可能なのか? 

何らかの用語を定義するとする。当然言葉によってそれはなされる。
するとここで用いた言葉の定義も必要である。その定義をすると,そこでまた
新しい言葉が出てくる,そしてその言葉の定義が必要になる・・・
話をわかりやすくするために英語で数学を記述するとしよう。
例えば英英辞典で
three を引くと 10 個くらいの説明がでている。
その中の文章にはもちろん
three という同じ文字は出てきてはいけない。
例えば
the cardinal number that is the sum of two and one と出てくる。すると
two
の定義も必要になる。two 10 個くらいの説明があって,例えば
the
cardinal number that is the sum of one and one などと出てくる。
すると
one の定義も必要にある。これは single, lone, not two or more と出ている。
このときは途中で出てきた語
two が現れて説明が循環してしまったが,
次々と新しい言葉で説明したとしよう。一つの単語の長さは
$100$ 以下といってよいだろう,
するとこの操作は
26^{100} 回より少ない回数を繰り返すうちには同じ言葉がでてきてしまう。
すなわちいつかは必ず同じ語が出てくるのである。
ならば真に定義したことにならないのでないか?
しかし言葉を用いる限りこれは避けられない,ならば数学を厳密に展開できるのか? 

 

 (2)公理について

 

数学の主張は証明されて初めて真とみなされる。
ところで証明するには何らかの根拠が必要である。
するとその用いられた根拠は真なのか,再び証明が必要になる。
すると別の新しい根拠が必要になる・・・。
すると上の(1)と同じ状況になるであろう。

数学はこうした困難にいかに対処したのであろうか? 

ここにヒントとなる話が維摩経([yu, pp. 102--103])の中にあるから引用しよう。

マンジュシリー(文殊)が質問してヴィマラキールティ(維摩)が答えている。
最初マンジュシリーが質問する。

「・・・どうして菩薩に一切衆生への大きな慈しみがおこるのですか」

という問いから延々と問答が続く。途中を省略して終わりの方だけ引用すると,

問「善と悪の根本はなんですか」

答「(個我の観念のもとである)身体が根本です」

問「身体の根本はなんですか」

答「欲望と愛着です」

問「欲望と愛着の根本はなんですか」

答「虚妄な分別です」

問「虚妄な分別の根本はなんですか」

答「倒錯した考えです」

問「倒錯した考えの根本はなんですか」

答「基底がないことです」

問「基底がないことの根本はなんですか」

答「マンジュシリーよ,基底がないことになんの根本がありましょうか。
だから,あらゆる存在は,無基底の根本にもとづいているのです」

問答の内容も興味深いが形式に注目してみよう。問答は無限には続けられない,
従って
最終的な時点をどこかに置かなければならない。
今の場合は「基底がない」ということが逆に出発点になっている。

数学では用語の中で最も基本的と思われるいくつかの用語には定義を与えないのである。
これを無定義用語という。この様な方法は実はすでにユークリッドの時代に確立していた。
たとえば空間の「点」「直線」とかは無定義用語とするのである。

それから,たとえば直線と直線が交わって点ができる,
などのような最も基本的と思われる主張は証明ぬきで真と約束する。
このような約束をいくつか設けて論理展開をして行く。この約束を公理という。
ちょうど将棋のように一定の規則の下に駒を動かして様々な局面を展開させるようなものである。
こうして無定義用語と論理記号を用いて公理から出発して,
あらゆる数学の主張を長さをいとわなければ書き下すことができよう。
このとき数学は徹底的に厳密になったと言えるであろう。
ちなみに自然数のなす集合
N の公理は次の通りである:

Peano(1858--1932)の公理系:  Let  N be the set with the following properties

I    N contains 1

II  There exists a map  f  from N to N .

III f (N) does not contain 1

IV  f  is injective.

V  If  a  subset  N’ of  N  has the following properties (a), (b), then  N= N'

(a)  N' contains 1,  (b)  f ( N') is a subset of N'

N の要素を自然数という。 f (x) x の次の自然数と呼ばれる。

Gauss (1777--1855) にとって自然数は一つ一つが個性をもっていて,
まるで生き物のようにみていたと伝えられている。
この定義では自然数の個性は全く無視されてしまっている。
小平邦彦
(1915--1997) は岩波基礎数学選書の最初に次の様に述べている:

「形式主義によれば数学はそれ自身は意味をもたない記号を与えられたルールに
従って並べて行くゲームに過ぎないとうことである。
これは数学の最も本質的なものを見落としているのではなかろうか?たとえば,
公理的構成の規範となった
Hilbert (1862--1943) の幾何学基礎論では「点」,「直線」,
等は意味のない無定義語,すなわち記号であって,「猫」,「雀」,
等で置き換えても一向に差し支えないということになっているが,これは事実に反する。
・・・図を描かず,頭の中で図を想像することもせずに,論理だけによって

Hilbert
の幾何学基礎論を理解することは不可能であろう。
私のみる所では,数学は実在する数学的現象を記述しているのであって,
数学を理解するということは,窮極において,その記述する数学的現象の
イメージをいわば感覚的に把握し,形式主義では捕捉できない
数学の意味を理解することである。」
([k1, p.182], [k2, p.157])

なお,同氏は数学的な対象を捉えるのは独特の感覚であって,
われわれは個人差があるが大なり小なりその感覚をもっており,
それは一種の視覚のようなものであるが「数覚」と名付けた
([k1])

§3.真理はどこに?

文字や言語には限界があって不十分であるとして,禅では不立文字ということが言われる。
真理は文字に表せない,概念で想定しうるものでないということである。
(但し,皮肉なことに禅宗の書物は膨大で,不立文字の内容をわからせるために
沢山の文字を用いている)

岡潔 (1901--1978)[o, pp. 129--130])は次のように述べている:

「数学において自然数の $1$ とは何であるか,ということを数学は全く知らないのである。
のみならず,ここはとうてい手におえないとして,初めから全然不問に付しているのである。
数学が取り扱うのは,自然数の全体と同じ性質をもった一つの体系が
存在すると仮定しても矛盾しないか,という問いから向かうのである。
幾何の点についても同様である。ところで,この
$1$ とか点とかは,
どうしてもわからないものかというと,宗教的方法を許容すれがわかる,
ということである。仏教の一宗に光明主義というのがある。この光明主義の笹本戒浄上人
(1874--1937) が,もう 20 年くらいになるかと思うが,こういわれた。

『自然数の $1$ や幾何の点は,無生法忍を得て初めてわかる。』

無生法認は法報二身(心と自然)の理法を悟るという,非常に高い悟りの位である。
それだったら,情抜きで,
$1$ や点をいい表そうとしてもできないのである。

数学は近頃こういうことに気づき始めた。人は矛盾のない体系というだけでは,
満足できるものでないと。なぜかというと,矛盾がないということを証明するためには,
この言葉の内容を規定しなければならない。ところがそうすると,
かように限定された矛盾がないとうことは,素朴な概念としての矛盾がないということと,
一致しないことがあり得るからである。」

華厳思想の根幹をなす事実として

「一即一切 一切即一 事々無碍重々無尽」

ということがある。田毎の月という言葉があるが,一つの月が沢山の田んぼそれぞれに映る。
一方,一つの目に目前の広い世界が入り込む。

一切の事物はみな理から現れて理と不二なるがゆえに,理の平等であるがごとく
事もまた平等であり,甲の事と乙の事と相即無碍である。現象界の一切の事象が
互いに融合していて障害となっているものは何もない,ということである。

華厳五教章に一から十までの数を取り出し相即相入の解明をしている箇所がある
(
[su, 7 章,華厳経の数論])

「問ふ,既に一と言はば,何ぞ一の中に十有るを得んや。答ふ,大縁起陀羅尼の法は,
若し一無くんば,即ち一切成ぜざるが故に。定めて知る,是の如し。此義は云何。
言う所の一とは,自性の一に非ず。縁成の故に。是故に,一の中に十有るは,
是れ縁成の一なり。若し爾らざれば,自性にして縁起なからん・・・」

そういえば平泉の中尊寺の金色堂の前庭のポールには,

「不可思議妙法塵 一々諸塵出一切」

という頌が書かれていた。あたりは静寂に包まれ一切が相即無碍であるかのようであった。

$1$ を定義するには実は自然数のあらゆる性質を述べる必要がありはしないか。
また
$1$ を定義した時点で実は数論の多くの性質はすでにその中に含まれている
のではないか。

とても Peano の公理だけから整数のもつ数々の不思議な性質,
例えば
Ramanujan (1887--1920) の発見した諸性質は説明できない。

話題は少し変わるが,数学の優れた一面は自らの限界を自ら証明していることである。

こんなことが出来るのも数学以外にないであろう。G\"odel (1906--1978)
不完全性定理
([h])によると,

「算術を含む帰納的で無矛盾な体系においては,決定不可能な,
すなわちそれ自身もその否定も証明できないような命題が,
その体系内にかならず存在する。」


簡単に言えば「ある程度複雑な体系においては,決して証明できない
ような命題が存在する」ということが証明されたのである。

この主張が発表されたとき人間の限界が証明されたと大きな話題となった。
しかし一方これは人間は限りなく進歩できる可能性を示すのであるとも取れる。

なぜならある体系では真も偽も証明出来ない命題は,それをこの体系の公理に付け加える
ことができ,新しい体系が得られるからである。


4文献

[h] 林 晋,ゲーデルの謎を解く,岩波書店, 岩波科学ライブラリー6, 1993

[hi] 広中平祐,科学の知恵心の智慧,佼成出版社,1985

[i] 岩田慶治,道元の見た宇宙,青土社 1985

[k1] 小平邦彦, 怠け数学者の記, 岩波書店,1986 , または岩波現代文庫 19

[k2] 小平邦彦, 幾何への誘い, 岩波現代文庫,学術 7, 2000

[yu] 長尾雅人訳, 大乗仏典7 維摩経 中央公論社 1980

[o] 岡 潔, 日本のこころ, 日本図書センター,人間の記録 54, 2000

[sa] 坂井 豊,  禅と数学, 共立出版,1956

[su] 末綱恕一, 華厳経の世界,春秋社, 1981

[y] 吉田洋一, 零の発見 岩波新書 49, 1950