7.御 法 語


聖者の御内観はとても深く広い。どのくらいか表現することは困難である。 
我ら凡夫との違いは,単細胞生物と人間くらいの違いがあるのでないかと思う,
単細胞生物がわれわれで聖者は人間である,それくらいの違いである。
進化を数億年続けたあとに聖者くらいになれるかもしれない。

たとえば,
われわれはこの大宇宙の中に自分があると思っている。
しかし実はその逆で,自分の(こころの)中にこの大宇宙はあるのだという・・・
そんなバカな,この宇宙は百数十億光年の大きさがある,それがこんな小さな
からだの中にあるこころに含まれるなんてことがあるか!?
(でもほんとうにからだの中にこころがあるのかな?)

れわれが客観的現象と思って見ている目前の景色は実は自己の心の相であるという。
そんなバカな,前に見える山は完全に自己とは独立した客観現象でしょう?
(だか, しかし,・・・
完全に独立無関係なら,見ることはできない筈である・・・!?)


ひょっとするとわれわれは,生まれてからこのかたずっと,
とんでもない勘違いをしているのかもしれない。
そしてそれらは単なる観念の遊びではないらしい,とは聖者の
不思議なお力からも察しられる。( 3.不思議なことを参照)
もしこのことが事実なら歓天喜地,こんなうれしいことない。

次の様に述べておられる:


1.
人の心霊開発して一大観念と合する時は,十方洞然として
窮まりなし。自観と大観念と同一にして二相なし。
能観所観不二なり。
空間に遍く,時間に遍し。三世を当念に収め,十方を尽くして当処に摂す。
表面の個人格を失わずして大観念と一致す。

宇宙は内観は一大観念なり。宇宙一大観念が,内容の理性によりて,意志によりて
発動すれば秩序となり,因果律に関係を以て万有を顕現す。
一切の個体はこの根底を自己の精神とぜざるなし。
自ら観ぜよ,自観と一大観念とは連絡して全く宇宙と一体なり。
一切の個々は悉く如来大円鏡智の一員ならざるなし。


向こうに見ゆる山河大地の物象は自己の観念が客観化して現じた相である。
実は自己の心の相を向こうにみておるのである。
向こうの物それ自体は何であるかは,物の象と現れたのは自己の観念の相である。
もし自己の心がなければ外界の相は如何なるすがたなるかは認識することはできぬ。
主観の心相と客観の色相とは実は本質一体である。

見よ自己が頭より脚下にいたるまで外部より見れば全体物質のみである。
しかるに同一の自己を内観すれば全体精神である。
物色と心象とは本来一体の両面・・・

宇宙は本来絶対観念にて,宇宙自体は絶対にて主観とか,客観とかの相対のものに非ず・・・  
その絶対観念を根底として,世界相対に規定せられたる個体的存在を衆生心,
すなわち阿頼耶識と名ずく・・・

見分とは主観にて,相分とは客観をいう。
いわく外界に現れたる山河大地等の一切の客観現象なるものは,自己の阿頼耶が向こうに現れたので,自己の心の外でない・・・  (畜生は畜生)餓鬼は餓鬼の阿頼耶をもってその身と世界とを感ず。人間は人間的に客観の事物を感見している。

現象界の裡面なる実体は吾人の五官をもっては実験し得ること能わず。
然れども直観することを得。・・・
吾人が自観的に観ずべき大観念界を実体界とす。・・・  
心相の方面をのみ観ずる時は宇宙は一つの観念態である。
この本質にすがたあるの性あるとともに,すなわち活動すべき能力あり。
これを絶対意志とす。
理性的規律によりて一大観念態がその遍動力のために発動せられたるが宇宙現象なり。・・・  
物体は力の実現せる客観々念。・・・
 
現象界は(此一大)観念態が天則的に(その)一大勢力に発現せらるるために変化を生ず・・・  
この大観念より認識の物質的固形の実在たる世界を観ずれば,大海の表面に現れたる影像のごとく,
幻影にして,その存在は観念的本質の客観現象に過ぎず。
(此)一大観念の大虚が吾人の心窓にあらわれたるのを名付けて阿頼耶識とはいうなり。  
もし個人の自観を開発する時は(此)一大観念に契合す。


3.平等性智

平等性智とは,宇宙の一大心霊に,万物を統一し摂理する理性として存在する
理性のことである。
聖者は平等性智についてこう言っておられる:
かの天体の無数の星宿が常に整然と運行する
のは,この平等性智が働いているからである。また
人間の体を構成する内蔵や血管や筋肉は,解剖学的にも,生理学的にも巧妙精緻を
極めていて,とても人間の力を以て作り出すことはできない。
そこには万物に内存する理性,つまり一切智一切能の性が万物に内存していて,
そのすべてを統一し,摂理し,一切の生成を秩序あらしめていることを認めないわけにいかない。
それが平等性智というものである。


4.
・・・之真如は随縁して万法を作る。
万法と為った方から見れば,種々に転変すれども,本態からは常一である。
然り之に依りて見れば,人生という一切衆生の浪は,一大真如の大海におこるに外ならず。
宝性論に無始世より本性ありて諸法の依止となる。性に依って諸道及び
涅槃の果を証するとあり。
此の意は宇宙には無始より一大心性がありて,それが一切万有の本体
と為って居るので六道の衆生と成るのも,また
諸仏の常住涅槃を証するのも,本は同一の心性である。
(人生の帰趣「如来蔵と帰趣」)


. 物質の触覚は絶対心の意志であるという:

客観の物象と主観の観念は同一本質の相対現象なので,
すべての物象も一大観念の客観的現象なることはすでに会得せり。
しかるに物質には吾人の触覚と感ずる重量とか固形態とかのごとき阻害性を有している所より見れば,
心は観念なれば 客観も心なりとは会得しがたし。
山河大地及び木石のごとき触覚に感ずべき固形態を何故に心なりというべきぞ。
答えて曰く,

宇宙一大心霊に写象と意志との二属性を有す。
意志とは心の力能である。

例えば人に意志ありて力となり堅固となる如く,宇宙心霊の力能が客観現となりて,
吾人の触覚に感ずべき物質となる。
物質と心質とは同一本質の相待現象である。
もしこの理に於いて能く了解し得ば,一大観念の相象にして,能観の心と所観の山河大地等の万象とは
同質の反対現相にして,一切の触覚に感ずべき重力と固形態などは意志の力なりとす。



宇宙全体が永恒に活ける如来である。
物心不二の絶対の大霊。 永遠霊活の大生命。 空間に遍して無量光。 
時間に徹する無量寿である。

仏教の最終目的は,正覚をさとり,大涅槃に帰するにあり。
如来無量光と合一して,心光遍く十方一切の真理を照らしてのこすことなきが
無上正覚なので,無量寿に帰一して,永恒不滅の生命となりしを大涅槃とす。



私どもの心はもと煩悩の炭であるが,
如来の慈悲の火がつくと,衆生心が仏光に同化せられて,
衆生の心に仏は常にあり。されば,むかしのそれとはかわりて,
たとえ,からだはこの寒さにせめられているにもかかわらず,
心は大慈悲の光にあたためられて,炭火のようなるを念仏心とは申すなり。
如来とともに在ることこれなり。

都合がよかったことも,悪かったことも,あとから考えてみれば,たいてい同じだ。

人の頭の奥底には,自分ながら測り知り得られぬ程の無尽の伏能を蔵している。
大いなる如来の光明を仰いで,一心不乱に念仏して,自己の奧の無尽の蔵を開き,
益々新しく進むべきである。