9.お慈悲の便り

 聖者は遠隔の地にいる有縁の人たちに,布教で夜も昼もないお忙しい中せっせと
お便りを出された (8.「さえられぬ光に遇いて」の章を参照)。
お慈悲に潤うまなじりに,書き送る身の上,信心の育ちを案じつつ,
西を東とへだてては,会う瀬もまれな遠国の信者たちの数々へ,
それぞれのお慈悲の音信を,束の間の暇もなき伝道の疲労もよそに眠る時間を
さいて,かきつづけられていった。
それらは聖者が 亡くなってから,全国に散在するお便りを集めて
お慈悲のたより(上)250通 (中)150通(下)130通としてミオヤの光社からそれぞれ
大正15年,昭和5年,昭和29年に発行された。
以下にそれらの中のいくつかを紹介します。

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大正元年、小倉からの便り:

真庭に笑める七重八重 きょう九重のさくらより

君がこころに咲きにおう まことに花ぞめでたけれ

我ためにとて斯ばかり いたらぬくまもなきまでに

こころづくしのつくしがた きみがまことの庭ふかみ

白くれないに桃さくら 柳のみどりこきまぜて

我日の本はさながらに にしきをしくかとあやしきに

ながめもあかぬときの間に すさむ風にさそわれて

さくらの花も散はてぬ 春の名残ぞしられけり 

大ミオヤはこころなき 草木に花を咲かしてぞ

人のこころもかぐわしく かく聞かせとしめしけむ 

子らのためとて大ミオヤの こころこめてや世の中の 

常なきさまをさとれよと ちる花にまでおしえけり



1.如来はことに大慈悲ふかくましませば,つねに衆生を
愛念し給ふことしばしもいとまはましまさぬにぞ,
あくがるる子の憶念のなかに,如来のさながら聖き霊なるみすがたは,
心眼の前にあらはれ給ふこと
のいかにありがたきぞや,
之を念仏三昧と名づく。
但し,行住坐臥つねに如来を憶ふこと,子の母をおもふ如くにてあれば,
現在当来遠からず佛を拝見したてまつる。


2.
「人間匆々として衆務を営みて,年命の日夜に去ることを覚らず,
灯火の風中に滅えなんこと期し難きが如し。
もうもうたる六道定趣なし,未だ解脱して苦海を出づること能わず,
いかんぞ安念として恐懼せざる。
おのおの聞け強健有力の時 自策自励して常住を求めよ。」
(以上は善導大師のお言葉)

実に我も人も,皆悉く忙し忙しと来る日も来る日も世の営みのために一日一日
我が命のつづまりゆくをおもはで,
風前の灯火なるわが身をかへりみず,ゆく先をみれば真っ暗闇にて,六道のうち,
いずれに落ち行くべきゆくえだにまだ定まらず。
古人の
「何事も皆いつはりの世の中に死ぬるばかりはまことなりけり」
と詠まれし如く,世の事はそれからそれへとかねがね予期していたることもあてにはならぬ。
ただ死ぬ事ばかりは早晩のがれがたき運命をもっているから,さまでに驚かざるは実に不覚なることぞ,
との大師の御警告のほど。
さればこそみほとけの教えに基づきて,永遠安住の如来のみちを求むることにこそあれ。


3.  ずんずんと時間は過ぎ去ってしまう。一日一日に暮れてゆく,今年も早わずかばかりになってしまった。
而して暮れになれば忙しい忙しいと誰も彼もかこちごとをいっている。
全体人間は何のために生まれてきたのでしょう。
食ってはねて,寝ては起き,毎日毎日同じことを繰り返し繰り返ししていまいにはどうなってしまうのでしょう。
年は暮れてもまた新しい年は繰り返して改めて来る。われわれはからだはどうなってしまうのでしょう。
世間のひとはどう思うて日々暮らしているのでしょう。
ただただ貪じん煩悩のために暮らしてしまって,自分は何のために生まれてきたのでしょうか,
ついにはどうなって
しまうのでしょうなどというような人生の問題などというものを自分で自分の目的が何とも思わぬのでしょうか。
これほど人生の一大事の事はないのに,
それには一向に無頓着で,本当に一休和尚のやうに悟っていて 己の大事もへちまもかもはでいるかと思えば,なかなかそうではなくて,胸のうちにはちょっとも休みなしに, それからそれへと,心はあせってそしてもだへているのである。
     天地から借りた借り物であるからだを全く自分のものと決め込んで,おれがおれがと
寝てもさめても,おれがにほだされて,おのれの上をかへり見でくらして,いつまでも自分のもの
であるから安心と思ふて居る。
流行性感冒で若い人が死んだと聞いても死ぬということはよその人にばかりあるので,
自分の身にはまだまだ千年も後のように思っている。
全体人間は何から出て来たので,いかにしたならば真理にかなふ人生を果たすことが
できるでせうとは思はで,ほんとうに暗きより暗きに入ってしまうものばかりである事
を思えば,実にかはいそうでたまらぬ。
 それでもその人の心の底には,大ミオヤ様から与えられた処の仏性という浄い浄い金剛石よりも
尊い霊の玉をもっている。しかるにちっとも貴重な宝石と見えぬのである。
さてここでせっかく人間に生まれても,天地万物のあらゆる大本の大ミオヤをしらで,人生をむなしく過ごすことがいかにも 気の毒でたまらぬ。
 もし大ミオヤの光明にあふて,心霊が卵のように信仰の目鼻がついてくれば大いなる親様の
お恵みを被りて,日々にありがたく日暮らしをすることが出来る。
この頃の田園の稲草のように,稲は一日一日に枯れてゆく死んでゆくけれども,稲に結びたる実は
一日一日に生きてくる。
なぜならば稲の果もまだ始めのほどはみのらぬうちは,いのちがないのであるから,
よしや来春になっても撒き付けても芽生えぬ。
よく十分に実り熟すれば,いのちがかたまったのであるから,
撒けばきっと芽生える。いねの実はてんとうさまの光をうけてみのる。
われわれのからだも稲のように,一日一日に枯れてゆくのである。
それでも大ミオヤ様の光明を被りて,念仏の衆生となれば,
心霊が十分に実って
きっとお浄土に生るるような魂の実を結ぶのである。

4.
人に生まれたうれしさ。
人は万物の霊長とて,よろづの生けるものの長たるもの。
仏教にては六道の中に於いて人の身をうけることは甚だかたきことと仰せられまして,
何故に人は万物の長でありませう。
衣食住の生活が他の動物よりもすぐれている故に霊長ともうすのではありませぬ。
人に生まれればこそ,かしこき道をきき,かぎりなく救われる身となることができるので,
この身にままが霊長ではなけれども,み法を聞いてこれを信じ,
上もなき佛位にものぼるべきことができるのは,
人間に生まれたうれしさである。
かく受けがたき人身を受けたるかひもなく,一生たしかなる安心もなく,
いかなるみ法に依ってたすかるべきかもしらずして,かえって我がままの心にて,
つみとがを作りて,三悪道のたねのみにして,
無量万ざいの苦しみをうけるとは,いかに愚かでありましょう。
うれしいのは,人間に生まれて救いの道にあうたのが,しんじつによろこばしいのです。



私には御名を呼び上げる毎に微妙の霊感を以て答え玉ふことなれば,
ましてあなたに対して御答ない筈はない。
然れば如何に心を致して御名を呼び上ぐれば,
ミオヤの御答の響きが聞こえ上げられるであろうとならば,
私は斯様に心を至して念じ上げ,
また御答の響きが聞こえ上げられます。
真実に如来様は私の真っ正面に在すことを信じ,深く念ひ上げて,
ナムアミダ佛と余念なく,己が心の統一するまで念仏して居りますと,
漸々に心も静まりて余念なく,只如来様のお慈悲の面影が自ずと彷彿として思われて
来るときに,何ともいわれぬかたじけない有りがたさの霊感が感じられて来ます。
これぞ如来の霊妙の御答は耳に聞こえぬが,直覚的に心に聞こえられるのであります。
あなたも斯やうに念を用いて一心に心を至して念仏して
真正面の如来に向かって念じ上げ何時までも心の統一するまで念仏し,
如来の霊響を聞き玉へ。
始めの程はなかなか二時間も三時間もかかってもそれはあなたの一大事のことですから
辛抱なされ。段々に時間が短くも統一が出来て
益純熟するに随ってついには念仏しさへすれば,
忽ちに三昧に入って如来の霊響に充たされる妙境に入ることが出来て来ます。
之即ち感応同交が宗教の唯一の機関であります。
もし感応の聞こえぬは,古人が

               祈りてもしるしなきこそしるしなれ,己が心に誠なければ